諏訪神社(すわじんじゃ)
位 置 二本松市針道字来ヶ作119番地
社 格 郷社
祭 神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
什 宝 矢ノ根(源頼義奉納 )
諏訪神社は、針道地区の北東部に位置し、天平年中(730年頃、奈良時代)に「信濃の國諏訪、諏訪ノ神社(現在の諏訪大社)」から移したものです。
永承年間(1050年頃、平安時代)に源頼義が奥州下向の際に当社に参詣し、弓矢を奉納し、以降、しばらくは毎年7月27日に神事を行うようになりました。
天正13年8月(1585年、戦国時代)、伊達政宗による 小手森城攻略の折、針道館(はりみちたて)を守っていた針道源太(はりみちげんた)が滅ぼされると諏訪神社も荒廃してしまいました。
その後、江戸時代はじめに再建されましたが、社殿は、 寛永15年(1638年、島原の乱の頃)、雷火によって焼失しました。
享保15年(1730年、八代将軍徳川吉宗の頃)、村民によって神社が建立され、本殿は、元文3年(1738年)再建されました。
宝暦8年(1758年、九代将軍徳川家重の時代)、針道村内に疫病が大流行後、祭礼を盛大にして、社頭の改修を行い ましたが神位のないことを遺憾に思った大内伊左エ門は金六十両を寄進し、これを基金として正一位の宣下を受ける運動を展開しました。
明和6年(1769年、 鬼の平蔵こと長谷川平蔵が活躍の頃)に大神殿(現存)を新築、寛政11年(1799年)に針道・永久保の名工・鴫原喜平太棟広が設計して新しい神輿(現存 日光東照宮にあるものと同じ造りと伝えられ、大変に立派なものであります)を作り、また、収蔵庫として宝蔵の新築を計画し、その後建立されました。
その後、紺や伝左エ門と大江や長治兵エの両人が、紺野せんからの金二十両をはじめとする多くの寄付金を携え、京都へ赴き、文久3年4月14日(1863年、新撰組結成の頃)、94年間の努力が実り、天皇直々の勅宣という形で正一位の神位を授かり、真の意味で針道組の総鎮守となり、本殿(現存)を新築しました。
昭和2年に郷社に昇格して、社殿を整備し、現在に至っています。
南向きのお宮が多い中で、諏訪神社が北を向いたお宮であることは、武神であり、北の陸奥国の開発を目的として建てられた神として北を向いているのであろうと考えられます。
また、境内には蚕養神社が祀られ、同じ旧東和町内にある木幡山隠津島神社と同じく、養蚕の神として、主な産業であった養蚕を生業とする多くの人々から信仰されたと考えられます。
うっそうとした杉林の中にあるこの諏訪神社は、神秘的な存在であり、「パワースポット」としてのエネルギーを感じとる事ができます。

本殿

一の鳥居

二の鳥居

大本殿

勅宣 正一位諏方大明神

本殿内